山口県の由来や、歩んできた歴史をご紹介します

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歴史探訪

山口県歴史探訪
山口県の概要
山口県は本州西端に位置し、北は日本海、西は響灘、南は瀬戸内海に面しています。気候は温暖で、風水害や地震も比較的少なく、住み良い県といわれています。自然も豊かで、我が国最大のカルスト台地と鍾乳洞を持つ秋吉台国定公園や原生林と渓谷美の西中国山地国定公園など、四季折々に変化に富んだ顔を見せてくれます。山陽地方に当たる瀬戸内海側は、重化学コンビナートを中心とした工業と、高速道路網などを生かした流通業などが発展しており、瀬戸内工業地域の一角を成しています。一方、山陰地方に当たる日本海側は、農業・漁業などの第一次産業と観光業などのサービス産業が中心です。

山口県のあゆみ
山口に人が住み始めたのは弥生時代のころと言われています。この時代の遺跡、「土井ヶ浜遺跡」から発見された弥生人の300体余りの人骨は、大陸から新しい文化をもたらした渡来人のものと考えられています。

平安時代末期には大規模内乱(源平合戦)の最終決戦地となりました。その内乱の際に焼失した東大寺を復興するため、重源の指導のもとで周防が東大寺料国となりました。

室町時代には、大内弘世が周防・長門の防長二国を平定し、「西の京」山口には、華やかな大内文化が開花しました。キリスト教を伝えにやってきたフランシスコ・ザビエルは、日本初の教会を山口に建設し、その翌年に行われた歌ミサが日本のクリスマスの発祥といわれています。

天文20年(1551)、周防長門の大大名・大内義隆が家臣・陶隆房によって殺害された大寧寺の変を契機に、毛利元就の勢力が拡大しました。元就は陶氏を破った後、大内氏も滅ぼし、防長二国を支配しました。豊臣政権のもと、元就の孫、輝元は8カ国を領国とし、最盛期を誇りました。しかし、慶長5年(1600)の関が原の戦いに敗れた毛利氏は、防長二国36万9千石に減封されました。

幕末には、過激な攘夷政策をとっていた長州藩と英・仏・蘭・米の列強4国の間で馬関戦争が起こり、長州藩は4国の連合軍に一方的に壊滅状態にされました。このことがきっかけで長州藩は尊王攘夷論から開国・尊王倒幕論へと考え方を変えました。そして江戸幕府との2度にわたる戦いを経て、奇兵隊を率いた高杉晋作らが活躍するなど、明治維新の大きな原動力となりました。

明治4年(1871)、廃藩置県により現在の山口県が誕生しました。大正期には、瀬戸内海沿岸地域に、造船、化学、機械、金属などの工場が次々に立地し、第二次世界大戦後には石油化学コンビナートが形成され、全国有数の工業県に発展しました。


山口県の名前の由来
山地や森林への入り口を「山口」ということから、阿武郡にある山の入り口が「山口」と呼ばれるようになったことが由来だと言われています。


山口県の歴史についてもっと詳しく知りたい人はこちら↓
山口市歴史民俗資料館
住所: 〒753-0073
山口県山口市春日町5-1 [地図を見る]
電話番号: 083-924-7001
開館時間: 9:00〜17:00
休館日: 月曜、祝日の翌日、年末年始
入館料: 大人100円、小中生50円







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